さくら咲いて笑いたかった

生きづらいとき、悲しいとき、不安な時、迷った時、書き出してみることで頭が整理されて、気分が良くなると言う。あまり深く考えず、感情を書き連ねていきたいと思う。

 

幼稚園受験ーーまだ2年ちょっとしか生きていない娘にとって、それはどんな影響を与えたのだろうか。この受験は両親の忍耐と調和がもっとも必要だ。結局は親の受験である。

私達夫婦の絆はこの幼稚園受験、ひいては教育における価値観の違いで崩壊してしまった。

よくある話だ。夫婦間の価値観の違い、考え方の違い、捉え方の違い。

他人同士が一つ屋根の下、考え方が違うのは当然である。しかし、そのちがいをどう認め合い、譲り合い、補い、助け合えるか、それができるかできないかで、家族のかたちは変わってくるといえる。

しかし、なかなかうまくは噛み合わないものだ。

今の私にとって、夫の言動・行動の一つ一つは、まるで心臓を突き刺す針のように、どんどんと生きる力を減退させる威力がある。

 

教育に大変関心がある夫は、娘をいわゆる偏差値の高い有名私立幼稚園に入れたがったている。

夫からいわせれば「おちることはいつでもできるが、のぼることは難しい。だからこそ、付属で将来的に高い偏差値になる学校に入れるのだ」とこのようである。

 

もちろん、希望の学校に入れるのであれば、それは大変おめでたいことであるわけだが、果たして将来の学力だけで学校を選ぶことが正しいのか、学校の理念や中身を見ずに決断してしまうことに深い疑念が湧いてしまう。

また、2歳すぎの子どもの心の成長・関心・理解力を無視した発言、それ無視し、能力を受験当日までに母親である私が引き上げろ、トップになるようになぜ出来ないのかという発言からも「夫婦一丸となって協力しよう」という姿勢はないように感じる。

 

協力、ということについて述べれば、家事・育児の手伝いはもともと夫はしない人である。掃除、洗濯、料理、子どものお世話のこと、全て丸投げで、「手伝って」と述べてもほとんどしない。

それについて以前言及したところ、「明確な理由を述べず、ただ手伝ってほしいと言われてもしたくない。なぜやってほしいのか、理由を明確に伝えるように。」とこのように返された。さらに、「妻たるもの家事・育児を担当し、自分は仕事を担当している、その責務を果たさないとは話が違うではないか」とこのようにも言われた。悲しいが、これが2021年の話である。

 

私が現在抱えていることについて少し説明したい。私は現在、仕事・学問・家事・育児を抱えており、仕事には週3回1時間半かけて職場に向かう。

毎日子どもを寝かしつけた後、掃除・洗濯・お弁当作りなどをする必要があり、4時に寝て、6時に起きるような生活を送っている。

私のこのような生活について、夫はもちろん不満を抱えている。

このように、容量オーバーな生活を送っていたため、数週間前より体調を崩し、職場から数日間お休みをもらった。

 

幼稚園受験に話を戻すと、このように、仕事をつづけている私のことがとにかく夫は許せなかった。そのせいで、幼稚園受験に身が入らなかったのだと、きつくきつく責められている。そして、私が教育について関心がない、何の情報も夫にもたらさない、利益をもたらさない、ということを言われてしまった。そして、娘に対して母親が優しすぎるから、あまり父親になつかないのだ、母親は子に厳しきあるべきである、とこのようにも言われた。

 

今、2歳すぎの子どもに必要なのは、家庭の安らぎ、家族との絆、自己を認められる肯定感、こういうものではないかと考えている私にとって、学力を伸ばしてあげることは2の次ではないか、と思ってしまっている。家庭の安らぎがぐらついている今、なかなか学力をつけさせようとは思えないのだが、それは私が間違っているのだろうか。

 

でも、夫に言えば言うほど、「それは違う、お前がしっかりしつけをしていないから…」とこのようになってしまう。

 

幼稚園受験の結果、いわゆる偏差値の高い学校の付属幼稚園には受からなかった。こんなガタガタな家庭状況の中で、受かるわけがないと思っていたので、私にとって何も意外ではなかったのであるが、夫は違う。準備にかかった費用に対して効果がなかったことに強く腹を立てている。このような私のあきらめが見えたことにも一番怒り、私のリサーチ力の無さ、親としての責任の無さを叱責された。

 

それでも、ある私立幼稚園には合格をいただいた。娘と様々な行事に参加させていただいた幼稚園で、雰囲気も良く、個人的に希望していたので、とても嬉しかった。

娘と一緒に「よかったね、がんばったね、沢山お友達作ろうね」と言っている横で、

夫からまた年中で幼稚園受験をするようにと告げられた。

 

さくらが咲いた当日、次の試練を告げられたのだ。合格した日くらい、そこでの学校生活に思いを馳せさせてくれてもいいじゃないか。制服が似合うかなとか、お友達と仲良くできるかなとか、お遊戯会でどんな役をもらうのかなとか、そんな日々を想像させてくれてもいいじゃないか。

 

どうして、まだ始まる前から、次の学校への転入先を考えないといけないんだろう。

「当然の事だ、大学までの計画を立てないといけない」というのが夫の意見である。

私が間違っているのだろうか。緩やかに、コツコツと、与えられた場所で時間をかけて関係を築き、他者の思いを汲みながら生きようと努めてきた。その生き方は違うのだろうか。

到底、教育ママとは言えのだろう。今の私は子への愛情を注いでいるつもりだが、子どもの将来のことを考えていない母親なのだろうか。

 

思考が、揺れ動き、留まることを許されない。

私は、私のままではこの家ではいられないのだと気が付く。

 

夫に、感情でものを言うのではなく、論理的な根拠をもって、納得できる提案、話をしろ、と言われる。そこで、論理的に伝えたつもりでも、結局「そうじゃない、態度が悪い、そういう言い方がいらだたせるんだ」と、言われてしまう。

論理的な説明に、やわらかな感情をのせることが必要ということだろうか。

 

夫は、私が倒れても、病院代をとにかく気にした。

私が欲しかった、ありがとう、ごめんなさい、大丈夫?そういう言葉をかけてくれることはない。

 

家にいる時が一番心が固く縛られる。私の心は一人になると、深い深い闇に沈むようにそこに立ちすくむ。

 

多くのSNSは監視下にあるため、このブログがどうか私が息をゆっくりと吸って吐ける場所になったらいいなと心から願っている。